Canon EOS Kiss X2 EF28mm F1.8 USM
以前に通っていた美容室からははがきが届いた。
「厳正なる抽選の結果チケットをお送りさせて頂きます」
50%オフだと書いてある。
カードを出して確認する。
最後のハンコが付かれたのは去年の4月。
ここに行かなくなってもう1年が経つのか。
僕が最初にこの美容室に行ったのは、
大学進学のために田舎から横浜の日吉に引っ越した19歳のときだった。
それから学生の間すべてと社会人なってからの4年間、
ずっと同じ人に切ってもらっていたのだ。
新しい大学生活が落ち着いた頃、僕は髪が切りたくなった。
寮で1つ上の先輩に尋ねる。髪はどこで切っていますか?
先輩は柑橘系の香水を空中に噴射しながら答えてくれた。
「原宿」と。
先輩は出かける前に香水を大量に使用する。
寮で一番の豪傑で、なおかつおしゃれな男。
長身で筋肉質、色黒で、声は低く渋い。
眼光が鋭く、後輩への指導は厳しいが、
先輩からも後輩からも一目を置かれた存在だ。
しかしいきなり原宿とは、田舎から出てきたばかりの僕には
少しばかり敷居が高く感じられる。
「原宿…原宿…」と僕が頭の中で反芻していると、先輩は続けた。
まあ、お前じゃ近所のでいいんじゃないの?悪くないぜ。
僕は近所の美容室を教えてもらい、そこへ行くことにした。
そこは割りとおしゃれを目指す寮生たちがよく行くらしい美容室だ。
しかし、僕が1回目に行ったときは散々な目にあった。
店に入り、紙を切りたいと伝えると、カラーですかパーマですか?
と聞かれる。いや、髪を切りたいんです。じゃあカットですね。
カット…、そうか、「髪を切る」んじゃなくて「カット」というのか。
僕は美容室に入ることが初めてだったのだ。
もちろん、cutという英単語は知っている。
しかしこういう場所でこういう風に使われているのかー。
カット、カットと復習していると、今度は「美容師のランクはどうしますか?」ときた。
ランク??そんなものがあるのか。
値段が3種類に分かれる他に、何が違うのかさっぱり分からない。
今からだと、一番上のランクの人が空いているらしい。
僕はどうせならと、「一番上」をお願いした。
椅子に座らされ、フードを被せられ、鏡の前でほけーっと待っていると、
長い黒髪にくねくねパーマをかけたヒゲ男が出てきた。
服装は原宿系?ではないのかこれはと思った。
えらくおしゃれなのだ。
対照的に僕の服装は、青いジーンズに無印良品のシャツである。
会話も何だかかみ合わず、大体の方向性を僕が伝え、
ほとんどお任せすることになった。
ヒゲはでかいギザギザのハサミでバサバサと僕の髪を切り落としていく。
僕は髪を引っ張られながら、これが男の理容なのだと自分を納得させる。
そのうちに出来上がったとのことで、仕上がりを確認する。
ランク最上のくねくねパーマヒゲ男の実力はしかし、
こんなものかなぁ…と思ってしまった。
荒っぽく切り上げられた頭を手のひらでなでると、
ところどころで短くなった髪がツンツンと反応する。
短い髪がしなり、ぴょんと飛び出すこの音が
都会の音というものかもしれないと思った。
数ヵ月後、また同じお店に行った。
僕は懲りてはいなかった。負けたままではいけないのである。
1回目は勝手が分からなかったが、今度は電話で予約を入れた。
ランクは背伸びをせず、真ん中と伝えた。
一番下を選ばなかったのは、ささやかな見栄だ。
その人は髪を丁寧に切った。
ギザギザのハサミは使わなかった。あれ?と思った。
細身のハサミを斜めに入れて、少しずつ髪の量を落としていく。
前の人と違う技術を使っていることは、素人の僕にもわかった。
そして何だか楽しそうなのである。
ニコニコしている。どこか余裕があるように見える。
会話も多くはないけれど、話しをするのも自然に出来る感じだ。
頭の仕上がりも断然好ましく思えた。
それからというもの、僕はずっとその人を指名し続けた。
次第に美容室の環境にも慣れてきた。
他の寮生たちがやるように髪を染めたり、
バイト代をためてパーマというものを試したりもした。
いつでも美容師さんは楽しそうだった。
僕の初めての試みを一緒に楽しんでいるようで、
色はどんな色にしようとか、パーマはどんな風にするかとか
さまざまな相談をしてくれた。
僕は仕上がった髪を鏡で見るたびに、
髪型が変わればこんなにも印象が変わるのだと感心したものだ。
僕は理容技術について評価をするほどの目を持ってはいないが
その美容師さんはどうやら相当な技術・感覚を持っていたようだ。
ある日のカットが終わり帰るときに受付のお姉さんから
担当のその人がコンテストで賞を取ったと聞いて僕は何だか嬉しくなった。
僕の髪の毛がこの人の技術の糧になっているとすると、
髪の毛も切られて本望だろう。
賞を取れば評価が上がる。評価が上がればランクも上がる。
最初に真ん中だったその人は、上のランクになり、値段が高くなった。
それでも僕は喜んで通い続けた。
またしばらくすると、転勤する事になったという。
行き先は渋谷店だ。これは栄転ってことだろう。
受付のお姉さんとそのことを話すと、お姉さんも嬉しそうに話してくれた。
そして僕は渋谷へ髪を切りに通う事になった。
遊びではなく用事のために渋谷へ行くと考えると、渋谷が近く感じられる。
渋谷の文化に染まろうと思い渋谷に飛び込むわけではない。
ごく自然の流れで渋谷に行く必要が出来たのだ。渋谷にいても不自然ではない。
都会で暮らす、ネイティブ田舎者の僕にとってこれは心強い出来事だった。
はがきを見て、10代の頃からの気持ちの流れを振り返る。
あの頃は今とは時間の流れが違っていた。
久しぶりに思い出して、懐かしくなってしまった。
1年ぶりに電話を入れた。
今日、切ってもらいに行こう。